敏馬神社(ミヌメジンジャ) 神戸市灘区岩屋中町4-1-8
敏馬神社(ミヌメジンジャ) 神戸市灘区岩屋中町4-1-8
御祭神:素盞嗚命、天照皇大神、熊野産大神、稲倉魂神
由 緒
当社の縁起は、奈良時代の『摂津風土記』逸文に、「美奴売(みぬめ)とは神の名なり。神功皇后が新羅へ出兵の時、神前松原で神集いをされた。その時、能勢の美奴売山(今の三草山)の神様が参られ、『吾が山の杉の木で船を造りて行かれるならば幸いあり』と御教示され、大勝利を収められた。帰還の節、この地で船が動かなくなり、再び占い問うと、『神の御心なり』と御教示された。故に、美奴売の神様をこの地にお祀りし船も献上した」と記される。神功皇后摂政元年(201の創建である。また、平安時代の『延喜式』にも「汶売神社(みぬめ)」と記載され、式内社として格式高い神社である。現在は旧岩屋・味泥・大石村の氏神である。
社殿は、かつて「敏馬の崎」と呼ばれた高台にあり、東側は大和時代頃より「敏馬の泊」という神戸最初の港で、遣隋唐使も立ち寄ったという。『万葉集』には「敏馬」を詠んだ和歌が九首載っている。境内には柿本人麿・田辺福麿の歌碑があり、万葉ゆかりの神社としても有名である。
また、神社の東側にも、万葉で有名な「西求女塚古墳」がある。
当社は古来より公家諸大名庶民の信仰篤く、多数の奉納品が現存するが、特に江戸時代の「樽廻船絵馬」は美術的価値の高いものである。
寛政年間建立の本殿は昭和20年戦災で焼失、同27年改築された社殿は、阪神淡路大震災で倒壊したが、復元修復をなした。
【神戸の神社】 兵庫県神社庁神戸市支部・編著より
社頭



鳥居・社号標



参道


境内



拝殿




本殿 御祭神:素盞嗚命、天照皇大神、熊野産大神、稲倉魂神



拝殿前の狛犬




末社 水神社、奥の宮




水神社
御祭神:弥都波能賣神
水を司る神で敏馬神社御創建時主祭神とされる。
御祭名より「みぬめ」の名が誕生したと考えられる。
奥の宮
御祭神:伊邪那岐大神
:伊邪那美大神
江戸時代以前より本殿の裏に祀られた古石祠。
悪縁を断ち良縁を結び家庭和平に御利益ありと古来より伝えられる。
末社 后の宮





后の宮
御祭神:神功皇后
別名:息長帯比売命 第14代仲哀天皇皇后
敏馬神社は神功皇后が御創建なされたの摂津風土記の記録に従いここにお祀す。
★「神功皇后祠」と書かれた石碑は昭和13年に神社の西北の民家から発掘されたもので室町時代の作と言われている。
★石灯籠は寛文13(1673)年奉納の銘があり、当社に現存する最古の石灯籠である。
末社 松尾神社



松尾神社
御祭神:金山彦神
:大山衹神
:船玉神
当社の氏子地は灘五郷の一つ西郷ともいわれ江戸時代中期より酒造業または江戸へ酒を船積みした回船業が大いに栄えたため守護神としてお祀りす。
当社には回船業者が江戸時代に奉納した石灯籠六基をはじめ、美術的価値の高い船絵馬十数面が現存している。
末社 稲荷神社




末社 閼伽井


絵馬

柿本人麻呂と田辺福麻呂の万葉歌碑



敏馬の泊・敏馬浦の変遷

敏馬の泊・敏馬浦の変遷
この高台は大和時代(6~7世紀)海に突き出した敏馬埼という岬。東側は船泊に適した入江「敏馬泊」と呼ばれた港であった。
当時、都のあった大和の人々が九州や文化の高い朝鮮・中国(例えば、遣隋唐使)へ旅立つとき、生駒山地を越え大阪から船出し、敏馬の泊で一泊。都から見える生駒山地を最後に遠望できる港。また「新羅の人が来朝したとき生田社で醸した酒を敏馬で給う」とあり、幾内へ入るために穢れを祓う港でもあったようだ。このように大和の都人にとり特別の思いをもつ敏馬であったので、万葉集には大和以外の地では稀に見る多くの和歌(九首)が詠まれている。境内に柿本人麻呂と田辺福麻呂の万葉歌碑がある。
奈良時代後半(八世紀)航海術の進歩とともに港は西の大輪田に移るが、白砂青松の美しい敏馬浦は、京の都人に知れ渡る所で「みぬめ」と「見ぬ眼」を掛詞にした和歌が多く読まれている。(順徳天皇・後伏見天皇・藤原定家・吉田兼好・藤原師光・賀茂真渕など)
江戸時代神社前は西国街道で往来繁く、また氏子地(大石・味泥・岩屋)に酒造業、その酒を江戸に運ぶ回船業が栄えその財力を頼り与謝蕪村やその弟子の呉春・大魯が訪れ、当地にも優れた俳人が生まれた。当社に俳諧絵馬二篇、船絵馬十数篇(神戸市指定有形文化財)が奉納されている。
明治・大正時代は、海水浴場・ボートハウス・お茶屋・料亭・芝居小屋があり大いに賑わった。
しかし、昭和の始め阪神電車のトンネル化した土で海岸は埋め立てられ消滅。さらに、昭和20年の戦災、平成7年の大震災で往時の面影はすっかり無くなり、神社鎮守の社だけが昔を偲唯一のようすである
社務所

手水舎


境内案内板①

式内社 敏馬神社略記
大石・味泥・岩屋・HAT神戸の産土神
御祭神:素戔嗚尊 天照大神 熊野座大神
神戸で最も古い神社の一つである当社の縁起は、奈良時代の「風土記」に記載されている。
「美奴売とは神の名なり、神功皇后が新羅へご出兵の節、神前松原(阪急神崎川駅近く)で神集いをなされた。その時 能勢の美奴売山(今 三草山という)の神様が参られ「吾が山の杉の木で船を造りて行かれるならば幸いあり」との御教示に従い大勝利を収められた。ご帰還の節この地で船が動かなくなり再び占いを問うと「神の御心なり」と。故に美奴売の神様をこの地におまつりし船も献上した」(境内の東に石碑あり)神功皇后摂政元年(201年)の御創建となる。
平安時代の「延喜式」にも 売神社の名あり。(美奴売・美奴面・見宿女・三犬女とも書かれた)延喜式に記載された神社を「式内社」といい、格式高い神社である。元の社格は県社。
社殿は飛鳥・奈良時代「敏馬の埼」と呼ばれた高台にあり、東側は「敏馬の泊」という神戸最初の港、都人は敏馬神様に航海安全を祈り和歌を献上して旅立って行かれた(日本最古の和歌集「万葉集」には「敏馬」を詠んだ和歌九首あり、境内に柿本人麻呂と田辺福麻呂の歌碑あり、万葉ゆかりの神社としても有名である)
奈良時代中頃、港は大輪田に移るが、白砂青松の美しい「敏馬浦」は都人に知れわたり、多数の和歌が詠まれている、しかし昭和6年頃より埋立てにより「敏馬浦」は消滅した。
夏季大祭 7月13・14日 茅の輪くぐり
秋季大祭 10月体育の日の前の土・日 神輿・獅子舞
境内案内板②

万葉ゆかりの地
敏馬神社
敏馬神社は、平安時代の「延喜式」神名帳にその名を見ることができ、神戸で最も古い神社の一つです。神社の東側は、大和時代の頃「敏馬の泊まり」といわれ、神戸最古の港でした。神社前の美しい海岸は、万葉の歌人を始め多くの歌人が賞賛する所で、特に明治時代より昭和の初期まで、多くの料亭・お茶屋・別荘があり大いに賑わいました。海岸は埋め立てにより、昭和初期に消失しました。神社の境内に、柿本人麻呂・田辺福麻呂の万葉碑があります。
所在地:敏馬神社(ミヌメジンジャ) 神戸市灘区岩屋中町4-1-8
阪神電気鉄道本線(阪神電車)・岩屋駅 南へ約100m
令和 6年(2024)10月16日 参拝
いつも訪問を頂きたくさんの気持ち玉・コメントを有難うございます。
これからも引き続きよろしくお願い致します。
明日も良い日で有ります様に!!
御祭神:素盞嗚命、天照皇大神、熊野産大神、稲倉魂神
由 緒
当社の縁起は、奈良時代の『摂津風土記』逸文に、「美奴売(みぬめ)とは神の名なり。神功皇后が新羅へ出兵の時、神前松原で神集いをされた。その時、能勢の美奴売山(今の三草山)の神様が参られ、『吾が山の杉の木で船を造りて行かれるならば幸いあり』と御教示され、大勝利を収められた。帰還の節、この地で船が動かなくなり、再び占い問うと、『神の御心なり』と御教示された。故に、美奴売の神様をこの地にお祀りし船も献上した」と記される。神功皇后摂政元年(201の創建である。また、平安時代の『延喜式』にも「汶売神社(みぬめ)」と記載され、式内社として格式高い神社である。現在は旧岩屋・味泥・大石村の氏神である。
社殿は、かつて「敏馬の崎」と呼ばれた高台にあり、東側は大和時代頃より「敏馬の泊」という神戸最初の港で、遣隋唐使も立ち寄ったという。『万葉集』には「敏馬」を詠んだ和歌が九首載っている。境内には柿本人麿・田辺福麿の歌碑があり、万葉ゆかりの神社としても有名である。
また、神社の東側にも、万葉で有名な「西求女塚古墳」がある。
当社は古来より公家諸大名庶民の信仰篤く、多数の奉納品が現存するが、特に江戸時代の「樽廻船絵馬」は美術的価値の高いものである。
寛政年間建立の本殿は昭和20年戦災で焼失、同27年改築された社殿は、阪神淡路大震災で倒壊したが、復元修復をなした。
【神戸の神社】 兵庫県神社庁神戸市支部・編著より
社頭



鳥居・社号標




参道


境内



拝殿




本殿 御祭神:素盞嗚命、天照皇大神、熊野産大神、稲倉魂神



拝殿前の狛犬




末社 水神社、奥の宮




水神社
御祭神:弥都波能賣神
水を司る神で敏馬神社御創建時主祭神とされる。
御祭名より「みぬめ」の名が誕生したと考えられる。
奥の宮
御祭神:伊邪那岐大神
:伊邪那美大神
江戸時代以前より本殿の裏に祀られた古石祠。
悪縁を断ち良縁を結び家庭和平に御利益ありと古来より伝えられる。
末社 后の宮





后の宮
御祭神:神功皇后
別名:息長帯比売命 第14代仲哀天皇皇后
敏馬神社は神功皇后が御創建なされたの摂津風土記の記録に従いここにお祀す。
★「神功皇后祠」と書かれた石碑は昭和13年に神社の西北の民家から発掘されたもので室町時代の作と言われている。
★石灯籠は寛文13(1673)年奉納の銘があり、当社に現存する最古の石灯籠である。
末社 松尾神社



松尾神社
御祭神:金山彦神
:大山衹神
:船玉神
当社の氏子地は灘五郷の一つ西郷ともいわれ江戸時代中期より酒造業または江戸へ酒を船積みした回船業が大いに栄えたため守護神としてお祀りす。
当社には回船業者が江戸時代に奉納した石灯籠六基をはじめ、美術的価値の高い船絵馬十数面が現存している。
末社 稲荷神社




末社 閼伽井


絵馬

柿本人麻呂と田辺福麻呂の万葉歌碑



敏馬の泊・敏馬浦の変遷

敏馬の泊・敏馬浦の変遷
この高台は大和時代(6~7世紀)海に突き出した敏馬埼という岬。東側は船泊に適した入江「敏馬泊」と呼ばれた港であった。
当時、都のあった大和の人々が九州や文化の高い朝鮮・中国(例えば、遣隋唐使)へ旅立つとき、生駒山地を越え大阪から船出し、敏馬の泊で一泊。都から見える生駒山地を最後に遠望できる港。また「新羅の人が来朝したとき生田社で醸した酒を敏馬で給う」とあり、幾内へ入るために穢れを祓う港でもあったようだ。このように大和の都人にとり特別の思いをもつ敏馬であったので、万葉集には大和以外の地では稀に見る多くの和歌(九首)が詠まれている。境内に柿本人麻呂と田辺福麻呂の万葉歌碑がある。
奈良時代後半(八世紀)航海術の進歩とともに港は西の大輪田に移るが、白砂青松の美しい敏馬浦は、京の都人に知れ渡る所で「みぬめ」と「見ぬ眼」を掛詞にした和歌が多く読まれている。(順徳天皇・後伏見天皇・藤原定家・吉田兼好・藤原師光・賀茂真渕など)
江戸時代神社前は西国街道で往来繁く、また氏子地(大石・味泥・岩屋)に酒造業、その酒を江戸に運ぶ回船業が栄えその財力を頼り与謝蕪村やその弟子の呉春・大魯が訪れ、当地にも優れた俳人が生まれた。当社に俳諧絵馬二篇、船絵馬十数篇(神戸市指定有形文化財)が奉納されている。
明治・大正時代は、海水浴場・ボートハウス・お茶屋・料亭・芝居小屋があり大いに賑わった。
しかし、昭和の始め阪神電車のトンネル化した土で海岸は埋め立てられ消滅。さらに、昭和20年の戦災、平成7年の大震災で往時の面影はすっかり無くなり、神社鎮守の社だけが昔を偲唯一のようすである
社務所

手水舎


境内案内板①

式内社 敏馬神社略記
大石・味泥・岩屋・HAT神戸の産土神
御祭神:素戔嗚尊 天照大神 熊野座大神
神戸で最も古い神社の一つである当社の縁起は、奈良時代の「風土記」に記載されている。
「美奴売とは神の名なり、神功皇后が新羅へご出兵の節、神前松原(阪急神崎川駅近く)で神集いをなされた。その時 能勢の美奴売山(今 三草山という)の神様が参られ「吾が山の杉の木で船を造りて行かれるならば幸いあり」との御教示に従い大勝利を収められた。ご帰還の節この地で船が動かなくなり再び占いを問うと「神の御心なり」と。故に美奴売の神様をこの地におまつりし船も献上した」(境内の東に石碑あり)神功皇后摂政元年(201年)の御創建となる。
平安時代の「延喜式」にも 売神社の名あり。(美奴売・美奴面・見宿女・三犬女とも書かれた)延喜式に記載された神社を「式内社」といい、格式高い神社である。元の社格は県社。
社殿は飛鳥・奈良時代「敏馬の埼」と呼ばれた高台にあり、東側は「敏馬の泊」という神戸最初の港、都人は敏馬神様に航海安全を祈り和歌を献上して旅立って行かれた(日本最古の和歌集「万葉集」には「敏馬」を詠んだ和歌九首あり、境内に柿本人麻呂と田辺福麻呂の歌碑あり、万葉ゆかりの神社としても有名である)
奈良時代中頃、港は大輪田に移るが、白砂青松の美しい「敏馬浦」は都人に知れわたり、多数の和歌が詠まれている、しかし昭和6年頃より埋立てにより「敏馬浦」は消滅した。
夏季大祭 7月13・14日 茅の輪くぐり
秋季大祭 10月体育の日の前の土・日 神輿・獅子舞
境内案内板②

万葉ゆかりの地
敏馬神社
敏馬神社は、平安時代の「延喜式」神名帳にその名を見ることができ、神戸で最も古い神社の一つです。神社の東側は、大和時代の頃「敏馬の泊まり」といわれ、神戸最古の港でした。神社前の美しい海岸は、万葉の歌人を始め多くの歌人が賞賛する所で、特に明治時代より昭和の初期まで、多くの料亭・お茶屋・別荘があり大いに賑わいました。海岸は埋め立てにより、昭和初期に消失しました。神社の境内に、柿本人麻呂・田辺福麻呂の万葉碑があります。
所在地:敏馬神社(ミヌメジンジャ) 神戸市灘区岩屋中町4-1-8
阪神電気鉄道本線(阪神電車)・岩屋駅 南へ約100m
令和 6年(2024)10月16日 参拝
いつも訪問を頂きたくさんの気持ち玉・コメントを有難うございます。
これからも引き続きよろしくお願い致します。
明日も良い日で有ります様に!!
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