2022年11月15日・大阪城公園(大阪市中央区)へ紅葉を⑥・・・・
2022年11月15日・大阪城公園(大阪市中央区)へ紅葉を⑥・・・・
2022年11月15日 撮影
大坂城/大阪城とは・・・・
戦国時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれた。
現在の大阪城は1930年代に再築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。
「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。
なお、城址を含む一帯は大阪城公園として整備されている。
天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。
wikipediaより
本丸広場から大阪城を・・・・
土橋を渡り桜門から本丸広場へ・・・・
重要文化財 桜門(さくらもん)
本丸の正面にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626年)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名所は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。
銀明水井戸の井筒・・・・
銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などの井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今の配水池に埋もれていて目にすることができない。
-歴史街道・案内板より
旧第四師団司令部庁舎・・・・
「第四師団司令部庁舎」年表
1931年(昭和6年):第四師団司令部庁舎完成
1940年:中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入るが、第四師団司令部は二ノ丸に移転
1945年:中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」に入る
1945年:終戦。GHQに接収
1948年:GHQより接収解除
1948年~1958年:大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として利用される
1958年:大阪市の管理下に置かれる
1960年~:大阪市立博物館として利用される
2001年3月:大阪歴史博物館の開館に伴い閉館
2001年~2016年:利用されず
2017年秋~:複合施設「MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)」
大阪城公園周辺観光ガイドさんのHPより
日本庭園から大阪城天守を・・・・
日本庭園
昭和6年(1931)大阪城天守閣復興にあわせ、大阪市の手により、当時東側に建っていた紀州御殿の庭園として整備された純日本式庭園です。
中央の池は面積300坪の鶴翼形、背景に築山をめぐらしています。池の南側からは、天守を借景した庭園のたたずまいが楽しめるように工夫されています。歴史街道さんの看板より
日本庭園の紅葉・・・・
本丸から市街地を・・・・
大坂城 豊臣石垣公開プロジェクトが進められています・・・・
次回は・・・・
続きます・・・・
いつも訪問を頂きたくさんの気持ち玉・コメントを有難うございます。
これからも引き続きよろしくお願い致します。
明日も良い日で有ります様に!!
2022年11月15日 撮影
大坂城/大阪城とは・・・・
戦国時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれた。
現在の大阪城は1930年代に再築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。
「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。
なお、城址を含む一帯は大阪城公園として整備されている。
天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。
wikipediaより
本丸広場から大阪城を・・・・
土橋を渡り桜門から本丸広場へ・・・・
重要文化財 桜門(さくらもん)
本丸の正面にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626年)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名所は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。
銀明水井戸の井筒・・・・
銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などの井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今の配水池に埋もれていて目にすることができない。
-歴史街道・案内板より
旧第四師団司令部庁舎・・・・
「第四師団司令部庁舎」年表
1931年(昭和6年):第四師団司令部庁舎完成
1940年:中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入るが、第四師団司令部は二ノ丸に移転
1945年:中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」に入る
1945年:終戦。GHQに接収
1948年:GHQより接収解除
1948年~1958年:大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として利用される
1958年:大阪市の管理下に置かれる
1960年~:大阪市立博物館として利用される
2001年3月:大阪歴史博物館の開館に伴い閉館
2001年~2016年:利用されず
2017年秋~:複合施設「MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)」
大阪城公園周辺観光ガイドさんのHPより
日本庭園から大阪城天守を・・・・
日本庭園
昭和6年(1931)大阪城天守閣復興にあわせ、大阪市の手により、当時東側に建っていた紀州御殿の庭園として整備された純日本式庭園です。
中央の池は面積300坪の鶴翼形、背景に築山をめぐらしています。池の南側からは、天守を借景した庭園のたたずまいが楽しめるように工夫されています。歴史街道さんの看板より
日本庭園の紅葉・・・・
本丸から市街地を・・・・
大坂城 豊臣石垣公開プロジェクトが進められています・・・・
次回は・・・・
続きます・・・・
いつも訪問を頂きたくさんの気持ち玉・コメントを有難うございます。
これからも引き続きよろしくお願い致します。
明日も良い日で有ります様に!!
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